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鳥居という境界にぶら下がるあかり
 「ドイツ写真の現在」を観に京都国立近代美術館へ。寒いので楽しくなる写真を勝手に期待したが、そういうのは一枚も無い。過去の出来事の積み重ねや残り物としての現在。曖昧な記憶を頼りにした想像上の現在とは明らかに別物だった。現実との向き合い方を考え直さねば。
 それはそうと美術館を出たところの平安神宮の鳥居がでかい。でかすぎて鳥居には柱があることに改めて気づかされる。柱がでかいといえば梅田スカイビル空中庭園もそうだった。柱だけどその前にこれはビルだよなと思ったが、ビルと柱には前も後も無いだろう。
 難波にあるカタログハウスの店で温泉のもとを買ったらこれが良くて疲れが取れ易くなった気がする。しかし相変わらず風呂の湯の冷めるのが早い。
 でよく眠れるようになったのはいいのだが最近変な時間に寝ている。それで思ったんだけど寝るって体を休めると言うけど、体の内側に入っていくというほうがしっくり来るときがある。というのも起きる直前の寝ぼけた状態では意識が体の中で迷子になっている気がする。その時は、体の右側と左側という概念がなくなっている。左右というのは体を外から見て始めて分かることだから目をつぶって寝てるときはそういうもんだろうと言えばそうだけど不思議だ。例えば鼻が詰まっているとき、決して右の鼻の穴が・・とは思わずに2つある鼻の一方が詰まっていると感じる。トイレに行きたいときもトイレに行きたい体の部分とそうでない部分が2つあるように感じる。これはもともと1つしかないものが、体の右側と左側でうまく統合できてないのかも。さいきんよく迷子になる。